赤松利市『藻屑蟹(文庫本版)』を読んで。

本ブログでも一度紹介したことがある、第一回大藪春彦新人賞を受賞した短編小説『藻屑蟹』には、続きがあった。続き。続編。
一年前の昨日、電子書籍の無料コーナーで偶然見つけたこの本をすぐに読み、あっという間に度肝を抜かれたのをよく憶えている。ショッキングと言ってもいい。酷い衝撃を受けた。きっと生涯忘れられない読書体験だろう。それくらいに、短編小説としての『藻屑蟹』は相当な読み応えのある力強い本だった。
今回はそれが長編になったというのだからもっとすごい。凄まじさを二倍にも三倍にも膨らませていた。
人間の浅ましさ……業の深さ……そして、その穢らわしさこそが『人の本質』であるという"事実"をまざまざと見せつけ、読者を刺し殺すように現実という名の凶器、そして狂気を突き刺してくる。
実際に除染作業員として被災地福島に身を置いた経験のある赤松氏だからこそ書けた、3.11 東日本大震災という一種の『カオス』を見事に表現した一冊だ。

あらすじは一年前の昨日に書いたので割愛しよう……と思ったが、こうして新しく記事を書く以上そういう訳にも行かないだろう。一年前の文章をそのまま引用するのも味気がない。少し加筆修正して書いていくとしよう。

舞台は福島。
あの日、あの時、東日本大震災で一号機が爆発した映像を主人公の男がテレビで目撃するシーンから物語は始まる。
パチンコ屋の雇われ店長をしている夢も希望も将来も金もない平凡な主人公は思った。
「何かが変わるかもしれない」
しかし、実際に彼を待ち受けていたのは、今までと何ら変わりのない日常と、町に流れ込んできた除染作業員。そして、手に余るほどの義援金を貰いながらも「私達は被災者ですよ」と幅を利かせ始める原発避難民達だった。
六年の時が経ち、『纏まった金を手にしたい』と苛立ちを募らせながらも変わらずに平凡な日常を送っていた主人公のもとに友人・純也から大きな儲け話が舞い込んできた。事故関連の、大きな銭の流れ。
金・死・策・欲・我・善・悦。
静かに回り続けていた歯車が、音を立てて狂い始めた。
これは物語なんかじゃあない。
誰もが目を背け続けてきた現実だ。

と、まあほとんど同じだね。言っていることは。とは言え、内容としては、短編を読んだときとは結構印象が違ったという印象だ。
中盤あたりからどうもキナ臭くなってくる。何か……そう、何か大きな力が働いているのではないか……と。だが、そう思いついた時にはそこは既に渦の中。頁を捲れば捲るほど、その惨さ、無情さは苛烈を極めていき、渦の中で藻掻けば藻掻くほどに深みへとハマっていってしまう。その中でどう生きるか、と。

あまりこういう言い回しは好きではないけれど、この『藻屑蟹』は"平成の終わり"を飾るのに相応しい一冊だと私は思う。
本当に終わってしまうのだ。
平成というひとつの時代が。
その最後に、わたしはもう一度、刻み付けるように、この本を読もう。
忘れてはいけない。目を逸らしてはいけない。現実はいつも残酷で、人間はいつだって脆くて、自分はいつだって愚かだ。
目を逸らしたくなる気持ちは痛いほどにわかる。私だって何度も本を閉じかけた。あれから八年経った今でも、東日本大震災、そして原発事故というものは色褪せていない。過去の話ではないのだ。
今も続き続けている。
現に、第一原発の中に溜まった汚染水や燃料デブリは一切処理されていない。今年初めて、その燃料デブリがロボットの手によって『動かせることが発覚した』なんて言っている始末だ。廃炉なんて夢のまた夢である。そんな今だからこそ、『藻屑蟹』のような読者におもねらない、現実を写した小説を読むべきなのだ。
だから私はこの小説を沢山の人に勧めたい。自身でも、思い出す度に読み返し、そのリアルを何度でも刻みこもうじゃあないか。

是非、御一読願いたい。