村田沙耶香『コンビニ人間』を読んで。

強烈な個性は社会から排除される。
それは、社会を正常化するための修復作業であり、人間で喩えるならば免疫機能・代謝機能のようなものだ。不純物は廃棄され、古くなったものは入れ替えられる。代役はいくらでもいる。いくらだって量産できる。
そして、そのルール・法則が一番わかりやすく機能しているもっとも身近な場所がコンビニエンスストアである。商品も、店員も、ポップも、その全てが『コンビニ』という名のひとつの無機質な生き物の細胞であり、その中で代謝を繰り返している。
コンビニは変わらない。各社ごとの違いは多少あれど、その中身は変わらない。個性を持つはずの店員(人間)すらも、完璧なマニュアルのもとに同じように均される。ゆえに、誰であろうと、どこのコンビニに行こうと、コンビニ店員はコンビニ店員なのだ。個性は不要。多様性なんてとんでもない。
排除、代謝、修復作業、正常化。
そう聞くと、一種の気持ち悪ささえ感じる歪さではあるが、その中で生きやすさを感じる者がいる。いや、″その中だからこそ生きている″と感じられる者がいる。
それが本作の主人公。『古倉恵子』という名を持つ『コンビニ人間』だ。

幼少期から『普通じゃない子』として親や友人など、周囲の人間を困惑させていた恵子。鳥の死骸を見付けると「唐揚げにして食べよう」と言い放ち、「あの人を静かにさせて」と言われれば迷わずにスコップを取り出す。その奇妙なまでの合理的思考は幼少期を過ぎても変わらず、いつまで経っても人付き合いというものが全く上手く行かなかった。そんな中で大学一年生のとき出会ったのがコンビニエンスストアのアルバイトだった。
コンビニでは、全ての行動にマニュアルが存在しているため、自身が持つ"異質さ"を隠しながら所謂『普通の人』として社会の一部になることが出来た。コンビニ店員として社会に生きる。天職だった。しかし、大学卒業後、就職も結婚もせず三十代後半に差し掛かるまで何の疑問も持たずにコンビニ店員を続ける恵子を怪訝な目で見つめる『普通の人』がいないわけがなかった。多方面から浴びせられる憐憫と興味の眼差し。そのとき同時に出会った白羽というクズ男と奇妙な同棲生活が始まり──

と……ちょっと長くなっちゃったかな。実は粗筋を書くのが一番苦手なんだよね、私。申し訳ない。

さてさて、感想だけれど……。
うーん、圧巻! とあるかたに薦められてね。芥川賞受賞作ということで期待して読んだけれど、私の期待を大幅に超越してきた。内容の面白さも然る事乍ら、これが読みやすいのなんのと。スラスラ読めてしまった。
察しのいい読者諸賢はすでにお気付きかと思うけれど、この『コンビニ人間』はアスペルガー症候群発達障害を思わせる女性が主人公に据えられているんだよね。アスペルガー症候群を持つ女性のアルバイト日記って言うのが一番わかりやすいんじゃあないかな。いや、日記ではないんだけれどね。
アスペ。
人の気持ちが理解できない、とまでは行かずとも、言葉を直接的に受け取ってしまう。裏側が見えない。どこまでも合理的に生きようとする。その生きかたは、所謂『普通の人』から見れば"異常そのもの"だ。
だから、主人公の恵子はコンビニに勤めることで『普通の人』に擬態しようとするんだよね。仕事をして、マニュアル通りに動いて、他の店員の口調を真似して。まさしく擬態だ。それは概ね成功したんだけれど、どう考えてもそれはいつまでも続くものではないよね。
「結婚もしていないのにパート?」「なんで就職しないの?」「恋人は? 友人は?」「キモチワルイ」
まあ、そりゃそうなっちゃうよなあ……と。
とは言え、そんな失礼なこと訊くやつこそ「お前アスペだろ」ってなるけれどもね。まあ、それはさて置き、だ。
これは現代……と言うか、日本が抱えている大きな問題のひとつだと思うんだけれど、「多様性の時代! 個性を尊重しろ!」なんて声高に叫んでいるのに、いざ『普通じゃない人』を目の前にすると、「なんでそんなにおかしいの? 普通にしたほうがいいよ」なんてことを言い始める人がいる。白羽風に言うなら『他人の人生を強姦してくる』だ。
過干渉がすぎる。他人の人生に口出しをする権利なんて誰にもないのに、『普通』であることを無意識に強要してくる。
確かに、糾弾されるべき人間は居る。けれど、それは犯罪者であったり、その予備軍であったり、そういった道徳・倫理に反する思考や思想を持った人間だけであって、あくまで倫理的に生きようとしている異端者や、恵子のように『普通の人であろう』としている人間には当てはまらないはずだろう。
その人がそれでいいなら、そのまま生きていって良いんだって事を、時代がまず理解しなければ、この地獄は永遠に終わらない。
……なんて愚痴を言っても、こんなのキリがないことはわかっているんだけれどね。

さて。
私は、孤立した異端であることを誇りに思っているタイプの偏屈な読者なので、あまり恵子の『周りとおなじ人間でありたい』という気持ちには共感が持てなかったのだけれど、それは私が"好きでひねくれている"からだろうと思う。好きでそうしているのと、好きでこうなったわけじゃあない、の違いだ。恵子にとっては、人間社会と繋がるために人間の擬態をすることこそが『人生』なのだから、それでいいんだと私は思った。
変でも、おかしくても、異端でも、ひねくれていても、擬態でも、なんでも、生きていちゃいけないなんて事はないし、幸せになっちゃいけないなんて事はない。生きて、自分なりのハッピーエンドを目指せばいい。それが『個人』の人生だ。

この小説のラストは、読みかたによってバッドエンドにもグッドエンドにも解釈できる作りになっている。読んだあなたが、好きなように捉えればいい。
ただ私は、「ああ、よかったな」と思った。それがこの人の生きる道なんだから。