赤松利市『純子』を読んで。

この本を紹介する前に諸注意……と言うか、あなたにこの本を読む覚悟があるのかどうか──という確認を先ずもってしておきたい。
と言うのは、この『純子』という作品、糞(クソ)の小説なんだよ。そんじょそこらに転がっている胸糞悪い小説とは明らかに一線を画した……と言うか、もっとわかりやすく言えば、胸糞から『胸』を抜いた糞──つまりはウンコの話なんだからなんだけれど……イヤイヤ、待ってください待ってください、そこをなんとか……。

捉え違いをしてもらっては困るんだよ。言葉の解釈というのはなかなかどうして、思わぬすれ違いをするものだからね……先ずは話を聴いてくれ給えよ。このブログを読むのに、そう時間はかからないだろう?
目を通すだけでもいいのだから、せめて最後まで読んでいってくれ給え。

いいかい……私は『この小説がクソだ』と言っているわけじゃあないんだ。そもそも私は、人様の作品に対してそんな判断を下せるような偉い立場ではないからね……だから、そうではなくて、クソの、これは物語なんだぜと、そういう話をしているんだよ。
素晴らしい、うんこのお話なんだ。
『少女とうんこの、とても美しい物語』
……ハハン、まだピンと来ていない顔をしているね。しかし、それもそうだ。かく言う私だって、帯に書かれたこの文句を見たときは、「このコピーを考えた人間は気でも触れたのか!」と深く感じたものだ……なにせ『少女×うんこ』である。それをどう美しい物語に仕上げるのか──三ツ星レストランの凄腕シェフでさえ、そんな神業的調理は成し得ないだろうと、そう思ってしまうのも頷ける。
深く深く、頷ける。
けれども、そんな調理を成し得てしまう人間こそがこの、私の私淑する『赤松利市』という一人の小説作家なのだということを、先ず初めに伝えておきたいんだ。

……聞けば、去年作家デビューをしてからもう五冊目とのこと。
その執筆速度も然る事乍ら、質を落とすことなく、凄惨とも言える描写で読者を絶望の渦に叩き込み続けている話題作連発の超大型新人作家、赤松利市──その最新作『純子』が、"凄くないはずがない"だろう。

と……前口上はここまでにして、あらすじを語っていこうではないか。
実際、前口上など『本編とは一切関係がありません』というお決まりの文句で切って捨てられる、所詮はオマケのようなものなのだから、本当を言ってしまえば意味のないものと言えば意味のないものなのだ。が、前述した通り糞の話だ……ちょっと脅かしておかないと糞の話はしづらいかと思ってね、ハハハ。

さて。
物語の舞台は高度経済成長の真っ只中──昭和三十年~四十年頃の四国地方に存在した辺鄙な里だ。
肥汲み家業(竹竿で糞尿を掻き集めて運ぶ仕事)の貧困家庭に生まれた『純子』という名の美少女は、幼少期に気狂いの母を失い"かつて"遊女だった祖母に『女』として生きるための手練手管……いわゆる、エロ知識というものを叩き込まれ育った。
モチロン、祖母の狙いは金儲けだ。と言うのも、肥汲みの仕事だけでは一家を賄っていけるほどの金が儲けられなかったのだ。
ときには竿から糞を舐め取り「ここの家の糞は変な味がする、きっと病気の兆候だ。みんなに教えて回ってやろう!」などという脅迫めいたことを言い、その一家の『そんなことを吹聴して回られたら恥ずかしくてたまったものじゃあない──』という気持ちに付け込んで口封じのための金や食料を頂戴して生活をしていたほど、純子の家庭は困窮していた。
だからこそ祖母は、幼く美しい純子に『色』を教え込み、純子を『金の成る木』にしようと考えていたのだ──けれども、当然と言えば当然だが、純子が成長していくのと共に、着々と経済・社会も成長して行った。
やがて、汲み取り式便所はその役目を終えることとなり、水洗便所という画期的なシステムが普及され始めた。その影響で、逼迫していた肥汲み一家の家計は更に厳しくなり、遂に純子はその潔白な身を売りに出さなければならない状況に陥ってしまうのだが……それと同時期に里の水源不足が発覚することになる。水源地である『西瓜淵』の水位が明らかに低くなっているのだった。そして純子は──。

と、ああ、例の如く──と言うと、初めてここに脚(指か?)を運んでくれた人には済まないが、あらすじを書くのが本当に下手糞のクソで申し訳ないね。
イヤ、けれどもこの『純子』、あらすじを書くのメチャメチャ難しいんだよ……そりゃあ、簡単に書けと言われれば書けるけれども(今北産業風に言えば、美少女×うんこ×救世主だ)、これ実は、ファンタジーの要素が加わってくる話なんだよ。しかも後半からその毛色が強くなってくる。だから、軽々に語ると語りに偏りと騙りが出てきてしまうんだ。
うん、勘弁してくれ給え。

感想なんだけれど、そうだね。私は赤松作品のなかで言えばこの『純子』が一番好きだ。モチロン、簡単に人に奨められる本ではないのだけれど(なにせうんこだから)、こういう前向きな物語は読んでいて勇気づけられる。主人公であるところの純子が前だけを見据えて生きてくれているからこそ、この娘の生きかた・考えかたに同調出来るというのは大いにあるだろう。
赤松さんの作品と言えば、基本的に──と言うか、ほか四作は全て照明落としめで、絶望的かつ破滅的な小説ばかりなのだけれど、この物語だけは前を向いているんだよね。イヤ……前だけを向いているというのは、それはそれで危うい、危険思想な感じもあるのだけれど、この小説に限っては「ああ、それでいいのだ」と、私は思ったね。
明るい話ではなかったけれど、底抜けに暗い話でもない。時代と、性と、命を感じさせてくれる物語だった。

とにかく、面白かったよ。
お薦めだ。
いや、これが小学生並みの感想であることは自覚しているけれどね、しかしこれはギャグとして、という話だ。祖母が放つ暴言の語彙力だったり、途中に出てくる少年たちの滑稽さだったり、後半に出てくるとある人物(?)の嗜好だったり。笑ってしまうような『キモさ』が所々に出てきて、思わず鼻をつまんでしまう。
ここまで読めば気付いていると思うけれど、『Junko』と『Unko』で韻を踏んでいるのもシュールで面白いよね。作者である赤松さんのギャグセンスを感じる。
それと、「ドドドドド──」という擬音を荒木飛呂彦(ジョジョの奇妙な冒険)以外で聴いたことがなかったからかな、あのシーンは爆笑してしまった。思い出してもチョットにやにやしてしまう。明日うんこをする時には「ドドドドドドドド──」と言いながらしてみようかな……なんてね。


さて!
改めて最後に言っておくが、このブログを読んで『純子』を読んでみようと思ったのであれば、相応の【覚悟】をして読んでくれ給えよ。ここまで書いておいて何んだが、『私が好き』なものを、『君も好き』であるという必然など、どこにもないのだからね。苦手な人は苦手だろう。けれども理解しているだろう?
それは、君の肛門からも日々、排泄されている物なんだぜ。
ハハン。

赤松利市『ボダ子』を読んで。

本が泣いていた。
叫び声をあげながら、「ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ」と、懺悔するように泣いていた。そんなふうに思った。これは初めての感覚だった。
これが、『ただの物語』だったのならば、私はどれほど救われた気持ちになるだろう。
これが、『知らない世界で起こった出来事』だったのならば、私はどれほど気持ちが楽になるだろう。
悲劇なんてものじゃあない。惨劇すらも生ぬるい。脳の裏面にこびりついたトラウマが全身を駆け巡り、全ての感覚を奪っていく。涙なんて流れない。最後に残るものなんて何もない。教訓も、学びも、満足感もない。あるのは、底の見えない絶望と、無限に広がり続ける虚空。腹の奥で蠢く吐き気だけがひとつ、現実に感じられるものの全てだ。
正直に言おう。
ここに書く以上、これは感想文でもあり、紹介文でもあるのだけれど、この『ボダ子』という小説を、少なくとも私は、軽い気持ちで人に薦めることが出来ない。面白い面黒いの話ではなく、単純に薦めていいものなのかどうか判断しかねる、という意味でだ。
友人に「これ、読んでごらん」なんて言えるような本じゃあ、まずないんだ。それでも気になると言うのであれば、ならば、覚悟を決めて私もこの先を語ろうじゃあないか。


赤松利市『ボダ子』
前回このブログで感想記事を書いた『藻屑蟹』で第一回大藪春彦新人賞を受賞した赤松利市氏の長編小説四作目だね。凄まじい刊行スピードだけれど、その速筆も然る事乍ら、内容もまた、やはり凄まじかった。

あらすじ

あぶく景気、所謂バブルで大金を掴むことに成功した大西浩平は、その後も順風満帆な人生を送っていた。事業や女関係、全てが上手くいっていた。しかし、愛娘が中学校に進学してすぐ、幸福だった浩平の人生は音を立てて狂い始めた。娘が境界性人格障害(通称・ボーダー)と診断されたのだ。親の目の前でリストカットを繰り返す娘。発狂する母親。やがて東日本大震災が起こり、浩平の事業は破綻した。「なんとかなる、なんとかなる」再起するために愛する娘を連れ被災地へと飛び、土木作業員として働き始めた浩平を待ち受けていたのは過酷な労働に反する絶対的な貧困と、苛烈な虐め、娘の障害に対する認識の甘さだった。赤松利市氏の実体験をもとにした悪夢のような問題作。私は『あの町』で娘を見殺しにした──。

と、まあ、こんなところかな。
ほとんど公式のあらすじ丸パクリみたいな感じになってしまったけれども、これは仕方ないだろう。引用よりも少し手が込んでいると思って勘弁して欲しいところだ。
さて、感想なんだけれど……。
"唖然"の一言に尽きるね。
ウーン、これは本当にキツかった。せめてもの救いは、この小説が三人称視点で書かれていたことくらいだろうか。それ以外に救いがないというのはあまりにもあまりな話だけれど……それでも事実、それ以外に縋る藁が見つからなかった。ただでさえ気持ち悪くなりながら読んでいたのに、これが一人称視点で語られていたら耐えられなかっただろうね、たぶん私は。
作者自身、一人称視点では書けなかったんじゃあないかな。『実体験をもとに』という事だから、どこまで脚色が入っているのかは読者が想像する他ないんだけれど、ウーン……相当苦しみながら執筆したんじゃあないかな。こんな悪夢を『わたし』視点で書き続けたら精神が持たないだろう。

大西浩平という主人公はクズだ。
どうしようもなく、どうしようもない。ネグレクト、度重なる不倫、嘘。何よりも、自分がクズであることを自覚していないのが厄介なタイプのクズだ。少し意地悪な言いかたをすれば「俺はこれだけ頑張っているのに」なんてことを言えてしまうだろうタイプのクズだ。
報い、とまで言うのは流石に酷だとしても、自業自得と言えば、まあ自業自得だろう。その業に周囲の人間を巻き込んでしまっているのだからどうしようもない。……けれど、運命の荒波に飲まれ絶望の渦に引き摺り込まれていく浩平とボダ子の人生に同情心を抱かずには、やはり、いられない。
可哀想、という気持ちがより強く動くのはボダ子だ。個人的な話になるけれど、ボダ子と同じくネグレクトで境界性人格障害を背負ってしまった少女が古い友人にいるせいか、よりリアルにその悲劇を実感してしまったというのが大きいだろう。
育児放棄、育児怠慢、ネグレクト。
表立って描写されている悪夢は、浩平の見た悪夢だけれど、その裏で藻掻くボダ子の苦しみを思うと今でも胸が張り裂けそうになる。お父さんのそばに居たかっただけなのに、寄り添って貰えなかったから誰かに寄り添いたかっただけなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。最後に放ったボダ子の一言が、刺すように痛かった。

本を読み終えたあと、ふとカバーを外して感じたことも、ここに書いておこう。
たぶん、一般的に「ボーダー」と言われて想像する二種類の色は、白と黒だろうと思う。きっとそういう仕掛けが施してあるのだろうなと思いながら、私はカバーを外した。
カバーを外して裸になった『ボダ子』は、確かに間違いなく予想通りのボーダーだった。けれど、背中の黒一色に対して、表は白とは全然違う色だったんだよね。これには思わず声が出た。深読みし過ぎかもしれないが、そこでまた胸が苦しくなった。

と、ここまで書いてきたけれど、あなたがここまで読んでくれて『ボダ子』が気になったのであれば読んで欲しい。冒頭で「簡単には薦められない」と言ったけれど、ここまで興味を持って読んでくれたのであれば、ぜひ読んで欲しい。簡単な気持ちではない。読んで欲しい。きっといい気分にはならない。スッキリもしない。前述の通り、最悪な胸のざわめきが残り続ける正真正銘の問題作だ。けれど、だけれど、この本を、このトラウマを知って欲しい。反面教師としてでもいいんだ。教訓ではないにしても、こういう現実が世界には存在するのだということを知って欲しいと、私は心から思った。

うん。
いま、とても苦しい。

村田沙耶香『コンビニ人間』を読んで。

強烈な個性は社会から排除される。
それは、社会を正常化するための修復作業であり、人間で喩えるならば免疫機能・代謝機能のようなものだ。不純物は廃棄され、古くなったものは入れ替えられる。代役はいくらでもいる。いくらだって量産できる。
そして、そのルール・法則が一番わかりやすく機能しているもっとも身近な場所がコンビニエンスストアである。商品も、店員も、ポップも、その全てが『コンビニ』という名のひとつの無機質な生き物の細胞であり、その中で代謝を繰り返している。
コンビニは変わらない。各社ごとの違いは多少あれど、その中身は変わらない。個性を持つはずの店員(人間)すらも、完璧なマニュアルのもとに同じように均される。ゆえに、誰であろうと、どこのコンビニに行こうと、コンビニ店員はコンビニ店員なのだ。個性は不要。多様性なんてとんでもない。
排除、代謝、修復作業、正常化。
そう聞くと、一種の気持ち悪ささえ感じる歪さではあるが、その中で生きやすさを感じる者がいる。いや、″その中だからこそ生きている″と感じられる者がいる。
それが本作の主人公。『古倉恵子』という名を持つ『コンビニ人間』だ。

幼少期から『普通じゃない子』として親や友人など、周囲の人間を困惑させていた恵子。鳥の死骸を見付けると「唐揚げにして食べよう」と言い放ち、「あの人を静かにさせて」と言われれば迷わずにスコップを取り出す。その奇妙なまでの合理的思考は幼少期を過ぎても変わらず、いつまで経っても人付き合いというものが全く上手く行かなかった。そんな中で大学一年生のとき出会ったのがコンビニエンスストアのアルバイトだった。
コンビニでは、全ての行動にマニュアルが存在しているため、自身が持つ"異質さ"を隠しながら所謂『普通の人』として社会の一部になることが出来た。コンビニ店員として社会に生きる。天職だった。しかし、大学卒業後、就職も結婚もせず三十代後半に差し掛かるまで何の疑問も持たずにコンビニ店員を続ける恵子を怪訝な目で見つめる『普通の人』がいないわけがなかった。多方面から浴びせられる憐憫と興味の眼差し。そのとき同時に出会った白羽というクズ男と奇妙な同棲生活が始まり──

と……ちょっと長くなっちゃったかな。実は粗筋を書くのが一番苦手なんだよね、私。申し訳ない。

さてさて、感想だけれど……。
うーん、圧巻! とあるかたに薦められてね。芥川賞受賞作ということで期待して読んだけれど、私の期待を大幅に超越してきた。内容の面白さも然る事乍ら、これが読みやすいのなんのと。スラスラ読めてしまった。
察しのいい読者諸賢はすでにお気付きかと思うけれど、この『コンビニ人間』はアスペルガー症候群発達障害を思わせる女性が主人公に据えられているんだよね。アスペルガー症候群を持つ女性のアルバイト日記って言うのが一番わかりやすいんじゃあないかな。いや、日記ではないんだけれどね。
アスペ。
人の気持ちが理解できない、とまでは行かずとも、言葉を直接的に受け取ってしまう。裏側が見えない。どこまでも合理的に生きようとする。その生きかたは、所謂『普通の人』から見れば"異常そのもの"だ。
だから、主人公の恵子はコンビニに勤めることで『普通の人』に擬態しようとするんだよね。仕事をして、マニュアル通りに動いて、他の店員の口調を真似して。まさしく擬態だ。それは概ね成功したんだけれど、どう考えてもそれはいつまでも続くものではないよね。
「結婚もしていないのにパート?」「なんで就職しないの?」「恋人は? 友人は?」「キモチワルイ」
まあ、そりゃそうなっちゃうよなあ……と。
とは言え、そんな失礼なこと訊くやつこそ「お前アスペだろ」ってなるけれどもね。まあ、それはさて置き、だ。
これは現代……と言うか、日本が抱えている大きな問題のひとつだと思うんだけれど、「多様性の時代! 個性を尊重しろ!」なんて声高に叫んでいるのに、いざ『普通じゃない人』を目の前にすると、「なんでそんなにおかしいの? 普通にしたほうがいいよ」なんてことを言い始める人がいる。白羽風に言うなら『他人の人生を強姦してくる』だ。
過干渉がすぎる。他人の人生に口出しをする権利なんて誰にもないのに、『普通』であることを無意識に強要してくる。
確かに、糾弾されるべき人間は居る。けれど、それは犯罪者であったり、その予備軍であったり、そういった道徳・倫理に反する思考や思想を持った人間だけであって、あくまで倫理的に生きようとしている異端者や、恵子のように『普通の人であろう』としている人間には当てはまらないはずだろう。
その人がそれでいいなら、そのまま生きていって良いんだって事を、時代がまず理解しなければ、この地獄は永遠に終わらない。
……なんて愚痴を言っても、こんなのキリがないことはわかっているんだけれどね。

さて。
私は、孤立した異端であることを誇りに思っているタイプの偏屈な読者なので、あまり恵子の『周りとおなじ人間でありたい』という気持ちには共感が持てなかったのだけれど、それは私が"好きでひねくれている"からだろうと思う。好きでそうしているのと、好きでこうなったわけじゃあない、の違いだ。恵子にとっては、人間社会と繋がるために人間の擬態をすることこそが『人生』なのだから、それでいいんだと私は思った。
変でも、おかしくても、異端でも、ひねくれていても、擬態でも、なんでも、生きていちゃいけないなんて事はないし、幸せになっちゃいけないなんて事はない。生きて、自分なりのハッピーエンドを目指せばいい。それが『個人』の人生だ。

この小説のラストは、読みかたによってバッドエンドにもグッドエンドにも解釈できる作りになっている。読んだあなたが、好きなように捉えればいい。
ただ私は、「ああ、よかったな」と思った。それがこの人の生きる道なんだから。

赤松利市『藻屑蟹(文庫本版)』を読んで。

本ブログでも一度紹介したことがある、第一回大藪春彦新人賞を受賞した短編小説『藻屑蟹』には、続きがあった。続き。続編。
一年前の昨日、電子書籍の無料コーナーで偶然見つけたこの本をすぐに読み、あっという間に度肝を抜かれたのをよく憶えている。ショッキングと言ってもいい。酷い衝撃を受けた。きっと生涯忘れられない読書体験だろう。それくらいに、短編小説としての『藻屑蟹』は相当な読み応えのある力強い本だった。
今回はそれが長編になったというのだからもっとすごい。凄まじさを二倍にも三倍にも膨らませていた。
人間の浅ましさ……業の深さ……そして、その穢らわしさこそが『人の本質』であるという"事実"をまざまざと見せつけ、読者を刺し殺すように現実という名の凶器、そして狂気を突き刺してくる。
実際に除染作業員として被災地福島に身を置いた経験のある赤松氏だからこそ書けた、3.11 東日本大震災という一種の『カオス』を見事に表現した一冊だ。

あらすじは一年前の昨日に書いたので割愛しよう……と思ったが、こうして新しく記事を書く以上そういう訳にも行かないだろう。一年前の文章をそのまま引用するのも味気がない。少し加筆修正して書いていくとしよう。

舞台は福島。
あの日、あの時、東日本大震災で一号機が爆発した映像を主人公の男がテレビで目撃するシーンから物語は始まる。
パチンコ屋の雇われ店長をしている夢も希望も将来も金もない平凡な主人公は思った。
「何かが変わるかもしれない」
しかし、実際に彼を待ち受けていたのは、今までと何ら変わりのない日常と、町に流れ込んできた除染作業員。そして、手に余るほどの義援金を貰いながらも「私達は被災者ですよ」と幅を利かせ始める原発避難民達だった。
六年の時が経ち、『纏まった金を手にしたい』と苛立ちを募らせながらも変わらずに平凡な日常を送っていた主人公のもとに友人・純也から大きな儲け話が舞い込んできた。事故関連の、大きな銭の流れ。
金・死・策・欲・我・善・悦。
静かに回り続けていた歯車が、音を立てて狂い始めた。
これは物語なんかじゃあない。
誰もが目を背け続けてきた現実だ。

と、まあほとんど同じだね。言っていることは。とは言え、内容としては、短編を読んだときとは結構印象が違ったという印象だ。
中盤あたりからどうもキナ臭くなってくる。何か……そう、何か大きな力が働いているのではないか……と。だが、そう思いついた時にはそこは既に渦の中。頁を捲れば捲るほど、その惨さ、無情さは苛烈を極めていき、渦の中で藻掻けば藻掻くほどに深みへとハマっていってしまう。その中でどう生きるか、と。

あまりこういう言い回しは好きではないけれど、この『藻屑蟹』は"平成の終わり"を飾るのに相応しい一冊だと私は思う。
本当に終わってしまうのだ。
平成というひとつの時代が。
その最後に、わたしはもう一度、刻み付けるように、この本を読もう。
忘れてはいけない。目を逸らしてはいけない。現実はいつも残酷で、人間はいつだって脆くて、自分はいつだって愚かだ。
目を逸らしたくなる気持ちは痛いほどにわかる。私だって何度も本を閉じかけた。あれから八年経った今でも、東日本大震災、そして原発事故というものは色褪せていない。過去の話ではないのだ。
今も続き続けている。
現に、第一原発の中に溜まった汚染水や燃料デブリは一切処理されていない。今年初めて、その燃料デブリがロボットの手によって『動かせることが発覚した』なんて言っている始末だ。廃炉なんて夢のまた夢である。そんな今だからこそ、『藻屑蟹』のような読者におもねらない、現実を写した小説を読むべきなのだ。
だから私はこの小説を沢山の人に勧めたい。自身でも、思い出す度に読み返し、そのリアルを何度でも刻みこもうじゃあないか。

是非、御一読願いたい。

吉村萬壱『臣女』を読んで。

不条理。不憫。不潔。
人の愛という物が、一体どれほど醜く愚かしいものであるか、そしてまた、どれほどに儚く美しいものであるか。そんなことを残酷に、切り刻むように教えてくれる小説。もしも誰かに「純愛とは何ぞや」と問われれば、私は第一にこの小説、『臣女』を手渡し読ませるだろう。

あらすじ。

主人公の不倫が原因で妻が巨大化していく。罪悪感に苛まれた夫は、骨を鳴らしながら異形の者へと姿を変える妻を世間の目に触れさせぬよう献身的に介護するが、日に日に巨大化していく妻が摂取する食糧は人間が必要とする重量を軽々に超え、また、排泄の量もそれに比例して増えていった。高校の非常勤講師で小説家業をする主人公。増える食費。汲み取り式の便所。炸裂する大量の糞尿。異臭。いつしか妻の存在を隠しきれなくなった主人公は、あるひとつの決断を迫られて──。

と……毎回あらすじを語るのが下手で申し訳ない限りではあるが、マア大体こんな感じだろうと思う。
カフカの『変身』を思い出させる不条理さだ。この臣女の場合は、巨大化した妻の奈緒美がグレゴール・ザムザだ。そして、奈緒美は毒虫ではなく、人間が、人間の形のまま、巨大化していく。異形化していく。
まあ、そりゃあ、食べる量も増えれば、必然的に出す量も増えていくわけだが……その描写が汚らしいのなんのって……。
吐瀉物、糞尿、寄生虫、謎の痰。
文字から臭気が漏れ出していると表現して差し支えないだろう、これは。とにかく臭いし、汚い……。吐き気を催すほどの臭いが、この本からは漂ってくるんだ。いま、これを書いていて吐きそうだもの。
だから、あまり人に「ハイ、ドーゾ」と薦めたい本ではないんだよね。特に、綺麗なものだけを見ていたいと願う現実逃避系の意識高い女史には絶対に薦められない。いや……高慢ちきの鼻を折るという意味で薦めたい気持ちがないわけではないけれど……それでもチョットこれは難しいんだな。
人に嫌われたくないという自己防衛本能が過剰に反応してしまう。ウン……こう言うと吉村先生には失礼かもしれないけれどもね……。
しかし、そのリアルな汚らしさや臭さが、一見ファンタジーのようにも思える『妻が巨大化していく』という設定を現実側へとググイと引き寄せているのは事実なんだよ。
だから非常に難しい。
摂って出す。それは人として当たり前のことだ。どんな美女でも、どんな美男子でも、喰えば出す。臭くて汚い糞尿を炸裂させる。具合が悪ければゲロを吐き散らす。それを放置すれば虫が湧く。当然だ。
『所詮人間は一本の管なのだ』という一文。
まさしく、その通りである。グウの音も出ない正論だ。その厳然たる事実を、真実を受け止めた上で人を愛するということが、どれほどに難しいことか。
恋では無理だ。
愛でなければ、それは無理なことなのだろう。想い人の糞便に塗れても、その人を愛することが出来るか。一番穢らわしいものを見せ付けられても、側にいることが出来るか、支えることが出来るのか。
この小説のテーマは『介護』、そして『愛』だ(と思っている)。
だから……というわけではないが、これは、男性よりも女性に刺さりやすい小説だろうと私は思った。前述したように、あまり綺麗な本ではないから世に広く、大声で薦めたい本ではないけれど、せめて知人の女性にはぜひ薦めたいと思った一冊だ。
一応保身のために言っておくと、これは何も『介護は女性がするもの』という偏見の眼差しから言っていることではなく、現実的に、『介護』というものは現代に至ってもなお、男性よりも女性の身近に存在するものであるという『どこまでも現実的な事実・悪しき風習』を鑑みた上での意見だからね。
正直、男性には刺さりにくいだろう。介護というものを身近に感じている人でなければ、あまり理解の出来ない話だろうと思ったからね。
とは言え……とは言え、だ。
私には痛く刺さった。別に介護が身近にあるわけでは今のところないけれど(私は愛すべき人の汚物になら平気で触れるタイプの人間だからかもしれない)、何故だか酷く刺さった。痛い。
随所随所で織り成されるシュールなギャグが、その悲壮感をより一層際立てていて、自分の顔が苦笑を漏らす度に現実世界へとズブズブ引き戻される感覚が堪らなく辛かった。
なんど本を閉じたかわからない。
読むのにとても時間がかかった。
けれど、開くたびに広がる無情さが私の心臓を掴んで離さなかった。糞尿の臭気が、鳴る骨の音が、苦しむ奈緒美の呻きが、主人公の空虚さが、私を妄想の世界と現実の世界の狭間から逃してはくれなかった。気付けば読み終わり、打ちのめされていた。
この『臣女』、有名なTV番組アメトークで推薦されていたらしいけれど、それも頷ける。凄まじい魔力だ。光浦靖子女史がこの本を読んでいたのは意外だったが、その反面、光浦女史がこの本を激しく推していた理由も、いまでは理解出来るのだから不思議だ。
愛することとは、どういうことか。
性欲と愛の違いとは何なのか。
今一度、考え直してみたいと思わせてくれた。
ぜひ一度、読んでみていただきたい。迷っているなら、なおさら。

好みの話になるけれど、私はこの吉村先生の文体がとても好きだった。心地のいいリズム、身体に馴染む言葉のリズム。
私が小説を読むときに重視するところというのは、内容もマア、そりゃあモチロンなのだけれど、この『リズム』というのが非常に重要で、これが崩されると全く読めない。目が追い付かなくなってくるのだ。
その点に於いても、この『臣女』はとても優秀で、気持ちよく読めた。
文字を音として捉える癖があると言うのかな、文字そのものが気持ちいいと感じる性癖があるので、そこは結構重要なんだ。ハハン。気色悪い事を最後に言ってしまったね……アルコールが回ってきた。そろそろここらで縁もたけなわ、お開きにしようじゃあないか。
気になれば、ぜひ。

森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』を読んで。

ごきげんよう
どうやら今日は全国的にバレンタインというイベントの日らしいが、これは実にくだらん。この件に限った話ではないが、日本人は外国の風習に影響を受けすぎなのだ。日本には日本の風習。日本人には日本人の価値観というものがあるだろうに。なにを我が物顔でバレンタインを満喫しようとしているのだ。チョコレートを渡すということは、貴様の想い人が虫歯に罹るリスクが増えるということだぞ。くだらん。

くだらんが、しかし、ここであまりバレンタインに触れなさすぎると「逆に意識している」「万年ぼっち」だなんて好き勝手なことをワアワアと言われてしまいそうで癪だから、バレンタインに因んで少し甘めの小説について語ろうと思っている次第である。

ここ最近は胃が痛くなるような重い本ばかりを感想文、兼、紹介として記事にしていたこともあるから、今日はガラリと趣向を変えて森見登美彦氏の超ベストセラー小説『夜は短し歩けよ乙女』について話をしようじゃあないかということだ。

とは言え、ここまで前口上を語っては来たが、この『夜は短し歩けよ乙女』は今さら私がブログで感想文を書く必要などないほどに人気がある本である。アニメ映画化までされているくらいなのだから。そう、大人気なのだ。むしろ、「読むのが遅すぎる」と非難の雨をビシャビシャと浴びてもおかしくない。
しかし、そんな大人気の作品であれど、少なからずまだ読んでいない人だって中には居るだろう。そんな期待を込め、そんな流行り遅れの捻くれ者達のためにここで、改めて粛々と語っていくとしようじゃあないか。

夜は短し歩けよ乙女
森見登美彦氏と言えば、前にもここで紹介をした『新釈・走れメロス 他四篇』の作者である。『四畳半神話大系』や『有頂天家族』なんかも有名で、そのどれもが京都を舞台に据えている。これは前にも言ったはずである。

そして、この『夜は短し歩けよ乙女』もご多分に漏れず、京都を舞台に捻くれたサブカル男子学生と不思議な女子達がオモチロオカシク破天荒な青春を拗らせていくお話だ。
都ファンタジー、とでも言おうか。だから、紛うことなきリアルでは、これはない。とことんまでご都合主義の恋愛ファンタジーである。そして私はご都合主義が嫌いではない。むしろ大好きなのだ。ご都合至上主義万歳。
とは言え、この話、ラストになってやっと物語が始まるタイプの青春物語である(少しネタバレかもしれないか)。ゆえに、中には消化不良に感じてしまう人も居るかもしれない。しかし私にはとても面白く感じられた。重苦しい本の箸休めとしては完璧すぎた。すっかり朗らかな気持ちにならされてしまった。次に進む脚を優しく撫でられてしまった気分だ。悔しい。

森見登美彦氏の作品はどれも面白いが、その内容も然る事乍ら、あの特徴的な文体が私は好きなのだが、一目見ただけで「ああ、森見登美彦氏の本だ」と思える個性を孕んでいるのが、たまらなく好きである。
これを言うと「なんだか一辺倒だ」なんて思われる方もあるかもしれないが、それは一辺倒で有り続けることの難しさを知らない者の考えかただ。一定の方向に傾き続けるというのは、中心でバランスを取り続けることよりもずっと難易度が高い。
高度なバランス感覚を持った上で、こういった傾きかたをしている森見登美彦氏の作品が、私は好きなのである。
特に今作では、ハチャメチャに始まった第一章の章末がステキに素敵だった。正直に申し上げると性交よりも気持ちよかった。ウワーヤラレター! と声に出してしまうほど綺麗な章末で、これは電子書籍で読まなくてよかったと心から唸り声をあげたものだ。是非ここまででいいので読んでいただきたい。本で。

ちなみにこの森見氏、毎回ファンサービス欠かさない作家さんで、別作品にも登場した人物がチラリホラリと出てくる。前回紹介した『走れメロス』の登場人物である芹名も登場するのだが、思わずニヤリニヤリと綻んでしまった。作中に『本は繋がっている』というセリフが出てくるが、これを意識してのことだったのだろうか。だとしたら、出来た作家さんである。素晴らしい。

と、流れるようにここまで話をしてきたが、この本を読み終えたのは一週間ほど前のことである。書こうか否かを考えあぐねていたところにバレンタインデー某という輩が来てしまったものだから、ついキーボードを執ってしまった。
そんなことをしているうちに、おっと、そろそろ私の時計が11時45分になりそうだ。憎きバレンタインなぞという宴もお開きの時間である。一日は早いものだ。ゆえに、明日からはバレンタインなどは気にせず生きて行こうではないか、読者諸賢。

命短し恋せよ乙女、だ。

ハハン。

三津田信三『のぞきめ』を読んで。

困ったことになった。
読書感想文という体裁上、ここに書く記事は飽くまでも"感想文"でなければならないわけだが、しかし、それに反してと言うか……このブログを書く上での自分ルールとして"出来る限りネタバレはしない"という制約を自身に課している所為で『なあんか、感想文と言うよりもドチラかと言えば紹介文っぽいよなあ』みたいな記事が多くなってしまっている……。イヤマア、別にそれは正直構わないんだけれども、それよりも他に困ったことが起こっているんだよ。
これは前回、前々回にも冒頭で話したがね、私はミステリー小説に関する感想文は書きたくないんだよ。
何を話してもネタバレになりかねないからね。下手をしたら、あらすじを語っただけで察しがついてしまう人も中には居るかもしれない。
ゆえにこれまで、ミステリー小説の感想文はなるべく書かないようにしていたんだ。

だがしかし、だ。

この三津田信三『のぞきめ』はまさかのミステリーなんだよね。
購入したときは「ホラーと本格ミステリーの融合だなんて謳っているけれども、要は『ミステリー要素を孕んだ民俗学ホラー』だろう?」なんて思っていたので、この感想文も難なく書けるだろうと高を括っていたんだけれども……それがトコロガドッコイのスットコドッコイだったというわけなんだよ。

あらすじは……マア、そうだね。二部構成になっているんだが、一部目の話だけにしておこうかな。
「覗き目の怪」のあらすじだ。

山奥の貸別荘地でアルバイトをしていた大学生四人は、別荘の管理人から「近寄るな」と固く禁じられていた廃村に興味本位で這入り込んでしまう。そこはかつて『弔い村』という異名で恐れられた曰く付きの村だった。"何か"に見られている──視線を感じ取った彼らは直ぐにその場から逃げ出すが「のぞきめ」と呼ばれる怪異は次々と大学生たちに襲いかかり──。

みたいな感じだ。
イヤ、怖いよ……。
序盤から中盤にかけてのホラー成分は本当に色が濃すぎて、小心者の私なんかは風呂に入ることすらマトモに出来なくなってしまったくらいだった。民俗学ホラーって、こんなに怖くて良いものなのかと……。
隙間とか視線系はダメだよ……先生……日常生活に支障が出る系はダメだって……。
「見つめ合うーーーッ、視線のレーザァービームでェーーーッ!」
なんて郷ひろみ氏のモノマネをしながらじゃあないと風呂に入れなくなる(現になった)。
ご丁寧に「障りがあったとしても、それは自ら好んで本書を読んだ"あなた"の責任です。何かに見られている──そんな風に感じた時は一旦本書を閉じてください」なんて注意書きまで添えてあってね……。趣味が悪いよまったく。
『作者自身が怪異譚の蒐集をしている際に出会った二つの怪異譚とその関係』という設定も、リアル方面へと話を引き寄せるための技術として巧いな、と……ここまでは単純にゾワゾワとするホラーなんだがね、後半に差し掛かると見える景色は様変わりして、ミステリーの色がかなり濃くなってくる。
ウーン……コッチに話が移行してからは若干消化不良と言うか……若干、無理矢理感が強いような気がしなくもなかったけれども、マア、それに関しては"そういうもの"として読めば面白く読める小説だろう。モチロン、私も面白く読んだしね。

それよりも何よりも、矢張り、特筆すべきは作者の民俗学への造詣の深さだろう。
民俗学にも、その中でジャンルや方向性があるだろうし、誠に恥ずかしながら私はソチラの学問に関してはまったくの無知なので(ドチラの学問もだが)『この人の知識が凄い』とは言いづらいんだけれども……それでも偶に出てくる民俗学的知識は、読みながら「へえ……そんな文化が根付いていた地方があるのか」なんて声に出して言ってしまったくらいに面白く、また、強く興味の惹かれるものだった。

そして、この小説が果たして『ホラー』として結末を迎えるのか、それとも『ミステリー』として結末を迎えるのか。それは是非、読んで目で見て確かめてみて頂きたい。

ちなみに、この『のぞきめ』という作品……映画化もされているらしいね。元AKB48板野友美女史がヒロイン(?)を務めているそうだ。
コチラの評判は……マア、これも自分の目で見てみなければわからないけれど、あまり評判は芳しくない様子だね。小説ならではの怖さっていうやつだったのかな。ハハン。

次は刀城言耶シリーズ『厭魅の如き憑くもの』を買おうかな。