赤松利市『純子』を読んで。

この本を紹介する前に諸注意……と言うか、あなたにこの本を読む覚悟があるのかどうか──という確認を先ずもってしておきたい。
と言うのは、この『純子』という作品、糞(クソ)の小説なんだよ。そんじょそこらに転がっている胸糞悪い小説とは明らかに一線を画した……と言うか、もっとわかりやすく言えば、胸糞から『胸』を抜いた糞──つまりはウンコの話なんだからなんだけれど……イヤイヤ、待ってください待ってください、そこをなんとか……。

捉え違いをしてもらっては困るんだよ。言葉の解釈というのはなかなかどうして、思わぬすれ違いをするものだからね……先ずは話を聴いてくれ給えよ。このブログを読むのに、そう時間はかからないだろう?
目を通すだけでもいいのだから、せめて最後まで読んでいってくれ給え。

いいかい……私は『この小説がクソだ』と言っているわけじゃあないんだ。そもそも私は、人様の作品に対してそんな判断を下せるような偉い立場ではないからね……だから、そうではなくて、クソの、これは物語なんだぜと、そういう話をしているんだよ。
素晴らしい、うんこのお話なんだ。
『少女とうんこの、とても美しい物語』
……ハハン、まだピンと来ていない顔をしているね。しかし、それもそうだ。かく言う私だって、帯に書かれたこの文句を見たときは、「このコピーを考えた人間は気でも触れたのか!」と深く感じたものだ……なにせ『少女×うんこ』である。それをどう美しい物語に仕上げるのか──三ツ星レストランの凄腕シェフでさえ、そんな神業的調理は成し得ないだろうと、そう思ってしまうのも頷ける。
深く深く、頷ける。
けれども、そんな調理を成し得てしまう人間こそがこの、私の私淑する『赤松利市』という一人の小説作家なのだということを、先ず初めに伝えておきたいんだ。

……聞けば、去年作家デビューをしてからもう五冊目とのこと。
その執筆速度も然る事乍ら、質を落とすことなく、凄惨とも言える描写で読者を絶望の渦に叩き込み続けている話題作連発の超大型新人作家、赤松利市──その最新作『純子』が、"凄くないはずがない"だろう。

と……前口上はここまでにして、あらすじを語っていこうではないか。
実際、前口上など『本編とは一切関係がありません』というお決まりの文句で切って捨てられる、所詮はオマケのようなものなのだから、本当を言ってしまえば意味のないものと言えば意味のないものなのだ。が、前述した通り糞の話だ……ちょっと脅かしておかないと糞の話はしづらいかと思ってね、ハハハ。

さて。
物語の舞台は高度経済成長の真っ只中──昭和三十年~四十年頃の四国地方に存在した辺鄙な里だ。
肥汲み家業(竹竿で糞尿を掻き集めて運ぶ仕事)の貧困家庭に生まれた『純子』という名の美少女は、幼少期に気狂いの母を失い"かつて"遊女だった祖母に『女』として生きるための手練手管……いわゆる、エロ知識というものを叩き込まれ育った。
モチロン、祖母の狙いは金儲けだ。と言うのも、肥汲みの仕事だけでは一家を賄っていけるほどの金が儲けられなかったのだ。
ときには竿から糞を舐め取り「ここの家の糞は変な味がする、きっと病気の兆候だ。みんなに教えて回ってやろう!」などという脅迫めいたことを言い、その一家の『そんなことを吹聴して回られたら恥ずかしくてたまったものじゃあない──』という気持ちに付け込んで口封じのための金や食料を頂戴して生活をしていたほど、純子の家庭は困窮していた。
だからこそ祖母は、幼く美しい純子に『色』を教え込み、純子を『金の成る木』にしようと考えていたのだ──けれども、当然と言えば当然だが、純子が成長していくのと共に、着々と経済・社会も成長して行った。
やがて、汲み取り式便所はその役目を終えることとなり、水洗便所という画期的なシステムが普及され始めた。その影響で、逼迫していた肥汲み一家の家計は更に厳しくなり、遂に純子はその潔白な身を売りに出さなければならない状況に陥ってしまうのだが……それと同時期に里の水源不足が発覚することになる。水源地である『西瓜淵』の水位が明らかに低くなっているのだった。そして純子は──。

と、ああ、例の如く──と言うと、初めてここに脚(指か?)を運んでくれた人には済まないが、あらすじを書くのが本当に下手糞のクソで申し訳ないね。
イヤ、けれどもこの『純子』、あらすじを書くのメチャメチャ難しいんだよ……そりゃあ、簡単に書けと言われれば書けるけれども(今北産業風に言えば、美少女×うんこ×救世主だ)、これ実は、ファンタジーの要素が加わってくる話なんだよ。しかも後半からその毛色が強くなってくる。だから、軽々に語ると語りに偏りと騙りが出てきてしまうんだ。
うん、勘弁してくれ給え。

感想なんだけれど、そうだね。私は赤松作品のなかで言えばこの『純子』が一番好きだ。モチロン、簡単に人に奨められる本ではないのだけれど(なにせうんこだから)、こういう前向きな物語は読んでいて勇気づけられる。主人公であるところの純子が前だけを見据えて生きてくれているからこそ、この娘の生きかた・考えかたに同調出来るというのは大いにあるだろう。
赤松さんの作品と言えば、基本的に──と言うか、ほか四作は全て照明落としめで、絶望的かつ破滅的な小説ばかりなのだけれど、この物語だけは前を向いているんだよね。イヤ……前だけを向いているというのは、それはそれで危うい、危険思想な感じもあるのだけれど、この小説に限っては「ああ、それでいいのだ」と、私は思ったね。
明るい話ではなかったけれど、底抜けに暗い話でもない。時代と、性と、命を感じさせてくれる物語だった。

とにかく、面白かったよ。
お薦めだ。
いや、これが小学生並みの感想であることは自覚しているけれどね、しかしこれはギャグとして、という話だ。祖母が放つ暴言の語彙力だったり、途中に出てくる少年たちの滑稽さだったり、後半に出てくるとある人物(?)の嗜好だったり。笑ってしまうような『キモさ』が所々に出てきて、思わず鼻をつまんでしまう。
ここまで読めば気付いていると思うけれど、『Junko』と『Unko』で韻を踏んでいるのもシュールで面白いよね。作者である赤松さんのギャグセンスを感じる。
それと、「ドドドドド──」という擬音を荒木飛呂彦(ジョジョの奇妙な冒険)以外で聴いたことがなかったからかな、あのシーンは爆笑してしまった。思い出してもチョットにやにやしてしまう。明日うんこをする時には「ドドドドドドドド──」と言いながらしてみようかな……なんてね。


さて!
改めて最後に言っておくが、このブログを読んで『純子』を読んでみようと思ったのであれば、相応の【覚悟】をして読んでくれ給えよ。ここまで書いておいて何んだが、『私が好き』なものを、『君も好き』であるという必然など、どこにもないのだからね。苦手な人は苦手だろう。けれども理解しているだろう?
それは、君の肛門からも日々、排泄されている物なんだぜ。
ハハン。