森見登美彦『新釈 走れメロス』を読んで。


※ネタバレは含みませんのでご安心を。


森見登美彦氏と言えば、『四畳半神話大系』や『有頂天家族』最近で言えば『夜は短し歩けよ乙女』など、アニメ化を中心に各所から度々注目を集めては高い評価を得ている人気作家の一人で、“京都を舞台に繰り広げられる大学生達の奇妙奇天烈な日々”をその独特な文体で古風に色濃く描いた作品が多い。

今回読んだ『新釈 走れメロス 他四篇』も、例の如く京都が舞台になっていて、これまた例の如く、偏屈な大学生達がハチャメチャな日常生活を送る物語の短編集になっているのだけれど……どの話にも元になっている短編小説があって、タイトルになっている『走れメロス』の他にも『百物語』や『山月記』など、日本の名作文学達を現代風に置き換えて物語が作られている。

中でも『桜の森の満開の下』は、良かった。
他四篇と比べ、だいぶん照明落としめと言うか、大人しめな説話形式の文体で語られる『男』と『女』の話なのだが、この主人公の男の心の空虚さにどうも感情移入してしまって、気が付けば胸の中に誰も居らん闇夜の桜並木が、風もなく映し出されてしまっていた。

……思えば、先日読んだ重量級の本の深刻な後遺症から解放されるために、サラッと読める軽めの本を〜と思って、触りだけ読んで放置していたこの本を再び読み直したはずだったのだけれど……想定していた以上にググウッと惹き付けられてしまって、見事に切ない気持ちを植え付けられてしまったものだから、いま、相当に困惑している所だ。
流石は森見登美彦ワールド……と言った所だろうか。雰囲気に飲み込まれてしまうと言うか、京都の魔力に侵されてしまうと言うか……気持ちのイイ、浮遊感にも似た感覚に否応なく浸らされている気分だ。

また、ギャグパートと呼ばれる箇所に就いてなんだけれど、彼の描くギャグパートは、それこそ、斬新さや大胆さこそないものの、「ああ、馬鹿だなあ。THE 大学生だなあ」なんて微笑んでしまうような、何処かホッコリしてしまう暖かさがあって、近頃のお笑い文化……他人を貶めて笑いを起こす芸風への嫌悪感が強い私としては、とても好感が持てるものだった。

偏屈なキャラクターの魅力というのは、偏屈さのその裏側に在る。その偏屈さの裏に傲慢や嫉妬、不安や苦悩が見え隠れするからこそ、どうも憎めない、可愛い奴め。なんて思ってしまうものではないかと……個人的には思うのだけれど、どうだろう。そう考えると、この作品に登場する『斎藤秀太郎』という人物は、その偏屈者の魅力というやつを遺憾無く発揮した、作中きっての素晴らしいキャラクターだったと言って言えなくはないだろう。
キャラクターで言えば、走れメロスに登場する芽野と芹名も、「ああ……森見登美彦が作ったキャラクターだなあ」と一瞥して納得出来るほど個性的なキャラだった。『詭弁論部に芽野と芹名あり』と豪語する彼らの友情感……はともかく。
詭弁論部って。
彼の作品に度々登場する部活ではあるけれど、また詭弁を弄されて……って。
想定し得る活動内容が、どう考えても地味すぎて、この名前だけでもクスッと来てしまうのが不思議だ。


と、ここまで書いてはみたけれど、最終的に全体通してどんな印象を受けたかと言えば……

「森見さん、楽しかったんだろうな」

である。
森見登美彦氏自身あとがきで語っていたけれど、作品のコンセプト自体がバッシングを受けても文句言えない類の作品なので、間違いなく賛否両論あるかと思われるけれど、それをこうして形にして、世に出した。ということは、もう、森見さん、楽しくて仕方なかったんだろうなと考察する他ない。
非難する側の人間にはわかりづらい話かもしれないが、こんなのはカバーソングみたいなものだろう。
色んな走れメロスがあっていい。このメロスも、実際に面白かった。それが楽しい世の中に、最近はなってきたと思うのだけれど……実際はどうなんだろうね。
私もね、Twitterで『吾輩は早漏である』とか書いてたくらいだし、そうすぐに目くじらを立てないで頂きたいと思うばかりだ。

いや、あれは酷かったけれど。