土橋章宏『超高速!参勤交代』を読んで。


※ネタバレは含みません。


なんと晴れ晴れとした気持ちであろう。
ここ何日か、やたら小難しい本と睨めっこをする日々が続いていたものだから、どうにも肩が凝って凝って仕方がなかったのだけれど……いやあ、今回の本の読みやすかったこと読みやすかったこと。
これまた前回とはまた違う友人の勧めで読んでみた本だったんだけれどね、彼には飛びっきりの感謝を伝える他ないよ。面白かったし、とてもイイ休暇になった。
まず何がって、改行の多さだ。
簡潔に纏められた文章だからこそ出来る得るこの親切設計。目にも脳にも優しく易しい文字数、そこに織り成される会話劇の小気味よさったら、そりゃあなかった。
いや、これは皮肉なんかじゃあなくて、本当に読みやすかったんだよ。タイトルを裏切らない疾走感と言うのかな、ダラダラとした展開が一切なく、超高速で話が進んでいくものだから、一切のストレスを感じることなく、しっかりキッカリ読み切れる。
ココ最近読んだ本の中では、一番ライトに、また、楽しく読み切れた本のような気がする。
ギャグの多さもまた、この本を読みやすくしている要因のひとつだろう。
暖房でカラッカラになった部屋に自分の笑い声が響いて、フッと真顔に戻る瞬間が何度もあった。
家臣であるところの相馬が猿真似をする場面なんて、笑いすぎて集中力が切れてしまい一度本を閉じたくらいだ。

さて、少し早いけれど、先に纏めの感想……と言うか、まあ、感想か。
……を言ってしまえば、これは『馬鹿でも読める時代小説』だった。
文化や仕来りの違いもあり、ただでさえ理解しにくい時代小説を、こんなにもわかりやすく、かつ、面白可笑しく描ける作家さんは珍しいだろう。
ちなみに、『馬鹿でも読める』と言うと、若干トゲがあるように見えるかも知れないけれど、いや、馬鹿に面白さを理解をさせるって、中々に難しいことなんだよ。
アタマがイイ人ってのはさ、自分を基準に物を語ったりするけれど、物語を語ったりするけれど、それはどう言い繕ったところで、万人に対する甘えなんだよ。
「理解出来ない者は理解してくれなくてイイ。理解出来る者だけが楽しんでくれれば──」
なんて、そんなものは言い訳にしかならない。万人に向けて何かを発信する者は、万人に理解し得るよう言葉を選ぶべきだ。
天才には凡才の気持ちがわからない。
この小説の中でも語られているけれど、力を持つ者は今一度、自分の持つ力に自分自身が溺れていないかを再確認するべきだ。

……と、あまり愚痴愚痴と語るのも良くない。いい加減本筋に戻ろう。

超高速!参勤交代

ははあ、なるほど。もう、タイトルから面白い。
『超高速参勤交代』ではなく『超高速!参勤交代』というのがミソだ(ミソか?)。この本の『高速ッ!』感が見事に演出されたタイトルであると言える。
あらすじを事細かに書くのは面倒臭いので大雑把に纏めようと思うけれど……時は20XX年。世界は核の炎に包ま……あれ、これ某世紀末覇者だな。
えーっと……。
江戸時代、今で言うところの福島県いわき市に藩を構えていた湯長谷藩藩主(内藤政醇)が、幕府からの無茶振りで本来一週間強かけて行う参勤交代を超高速のタッタ五日間で行う──という話なんだけど、いや、君ら、アレよ?
福島県よ?
福島から東京まで、走って五日で来いって話よ?
んな無茶な、と。
……まあ、色々と策を練って強硬手段を取るんだけれど、その道中で藩主の内藤政醇が『お咲』なる宿場女郎と恋(?)に落ちるのよ。
そこからのご都合主義っぷりったらないのよ。
ネタバレになるから、細かいところまでは話せないけれど……いやあ、悪くない!
ご都合主義が嫌いな方々には見るに堪えない展開であろうことは間違いないけれど、生憎様、私、ご都合主義大好き星人なものでして。
気持ちよく解決してくれたものだと膝を打ったものだ。
そして今回特筆したいのが、作中に登場する雲隠段蔵ってキャラクターなんだけど……。
『何その萌えキャラ──ッ』
感が凄くてね、恐らくただの渋いオッサンなんだけどね……それなのにとにかく、兎にも角にも可愛くてね、『段蔵────ッ』ってなってしまって、ぶっちゃけ主人公達よりも目立ってたように思う。
主人公にも、共感できる部分が少なからずあったのは確かなんだけれど、閉所恐怖症とかね、トイレを開け放したまま入らないと頭が狂いそうになるとか……いや、17歳くらいの頃、冬の寒さに耐えかねて風呂に入っていたら停電で電気が消えてしまった時なんて大声で泣き叫んだりしたものだよ。
「ウワアアアアア、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い────」なんてね。ハハ。
いかんいかん、取り乱したね。
纏めの言葉を先に書いてしまったものだから、どうもオチに辿り着けない。構成力のなさが浮き彫りになるね。ハハ。
なので、最後に心打たれたと言うか、ああ、その通りだなあと思ったセリフをひとつ。


『しかし思うたのですが、弱くなければ、人の世を生きるとは随分とつまらぬものではございませぬか』


いつの世に生きるにしても、強すぎるというのは、不幸せな事なんだよな。

夢野久作『笑う唖女』を読んで。


※ネタバレは含みません。


やあやあ諸君、しばらくぶり……ではないね。アハ。そう、そうだよ。またしても夢野久作なんだ。ハハハ……いい加減キチガイ地獄に堕ちてしまいそうだよ。アハアハ。
今回はね、仲のイイ友人に勧められた『笑う唖女』を読んでみたのだけれど、これがまた夢野先生お得意のキチガイ話でね。勧めてくれた友人からも、差別表現が多いからと注意があったくらいで……今の時代にこんなものを書く作家が居たら、評価も得られず、また、過激派の皆々様が鬼の首を取ったような顔をして叩き出すだろう事が容易に想像出来るね。ハハハ……時代が変われば読者も変わるということなのだろうさ。読む者を選ぶと言うのかな。イヤ、なに。前回話した『ドグラ・マグラ』みたいな、複雑怪奇を極めたような話しでは、まあ、ないんだよ。短編小説だからね。一時間もかからず読みきれてしまうし、内容もオチも理解しやすい。しかし……ゆえに“面白い本”だったかと訊かれれば、どうも言葉に詰まってしまうというのが、本当の本音なんだよ。でも、勘違いをしちゃあイケナイよ。いいかい。これは、内容が面白くないだとか、そういう事を言っているのではなくてね。そう、いささか教訓めいたものを感じる話だったという……読んだ後に残ったのが『アア、面白かった』と言った感想ではなく、『フウム、なるほど』だったという話だ。ハハ。一時の気の迷いで、気の狂いで、過ちなんかを犯すものではないね。
ところで、作中に登場するキチガイろう者の花子チャン。ああ、これは他に言いようがないんだよ。作内で“キチガイのオシヤン”なんて言われているものだからね……聾唖者と言わないだけイイと大目に見てほしいところだ。うん、そうそう花子チャン。「エベエベエベ……ケエケエケエ……キキキキッ」と、笑っているのか泣いているのか……文字で見ると、不気味と言うか、どう考えても頭がおかしいように思えるのだけれど……実際は明らかに何かを伝えようとしているんだよ。どう汲み取るかは読者次第だろうけれど、発狂している風には見えなかったね、個人的には。色情狂なのは、まあ……そうなんだろうけれど、それを言うのならば正気の沙汰ではないのは新郎のほうだろうさ。これは表現の問題だろうけれど……草花にも発情するって……花チャンなんかよりもよっぽど深刻な色狂だろうて。まあ、童貞を貫くことがステータスだった時代なのだから溜まった膿の量はそれこそトンデモナイものだったのだろうけれどね……しかし、童貞はステータスだ、なんて聞いたら、現代じゃ喜ぶ人が多いんじゃあないかな、なんて思ったもんだよ。アハアハ。

サテ、どうだろう。コンナ結末を迎えた物語を見て、陰鬱とした気分になる者と、その逆に、胸がスっとする者と、それ以外。少なくとも二種類以上の人間がいるだろう……これは性別の違いもあるのかも知らんけれどね。
ちなみに言わずもがなとは思うけれど、僕はどちらかと言えば、いや……どちらと言わずとも、最悪の後味だったと言う他ないね。

森見登美彦『新釈 走れメロス』を読んで。


※ネタバレは含みませんのでご安心を。


森見登美彦氏と言えば、『四畳半神話大系』や『有頂天家族』最近で言えば『夜は短し歩けよ乙女』など、アニメ化を中心に各所から度々注目を集めては高い評価を得ている人気作家の一人で、“京都を舞台に繰り広げられる大学生達の奇妙奇天烈な日々”をその独特な文体で古風に色濃く描いた作品が多い。

今回読んだ『新釈 走れメロス 他四篇』も、例の如く京都が舞台になっていて、これまた例の如く、偏屈な大学生達がハチャメチャな日常生活を送る物語の短編集になっているのだけれど……どの話にも元になっている短編小説があって、タイトルになっている『走れメロス』の他にも『百物語』や『山月記』など、日本の名作文学達を現代風に置き換えて物語が作られている。

中でも『桜の森の満開の下』は、良かった。
他四篇と比べ、だいぶん照明落としめと言うか、大人しめな説話形式の文体で語られる『男』と『女』の話なのだが、この主人公の男の心の空虚さにどうも感情移入してしまって、気が付けば胸の中に誰も居らん闇夜の桜並木が、風もなく映し出されてしまっていた。

……思えば、先日読んだ重量級の本の深刻な後遺症から解放されるために、サラッと読める軽めの本を〜と思って、触りだけ読んで放置していたこの本を再び読み直したはずだったのだけれど……想定していた以上にググウッと惹き付けられてしまって、見事に切ない気持ちを植え付けられてしまったものだから、いま、相当に困惑している所だ。
流石は森見登美彦ワールド……と言った所だろうか。雰囲気に飲み込まれてしまうと言うか、京都の魔力に侵されてしまうと言うか……気持ちのイイ、浮遊感にも似た感覚に否応なく浸らされている気分だ。

また、ギャグパートと呼ばれる箇所に就いてなんだけれど、彼の描くギャグパートは、それこそ、斬新さや大胆さこそないものの、「ああ、馬鹿だなあ。THE 大学生だなあ」なんて微笑んでしまうような、何処かホッコリしてしまう暖かさがあって、近頃のお笑い文化……他人を貶めて笑いを起こす芸風への嫌悪感が強い私としては、とても好感が持てるものだった。

偏屈なキャラクターの魅力というのは、偏屈さのその裏側に在る。その偏屈さの裏に傲慢や嫉妬、不安や苦悩が見え隠れするからこそ、どうも憎めない、可愛い奴め。なんて思ってしまうものではないかと……個人的には思うのだけれど、どうだろう。そう考えると、この作品に登場する『斎藤秀太郎』という人物は、その偏屈者の魅力というやつを遺憾無く発揮した、作中きっての素晴らしいキャラクターだったと言って言えなくはないだろう。
キャラクターで言えば、走れメロスに登場する芽野と芹名も、「ああ……森見登美彦が作ったキャラクターだなあ」と一瞥して納得出来るほど個性的なキャラだった。『詭弁論部に芽野と芹名あり』と豪語する彼らの友情感……はともかく。
詭弁論部って。
彼の作品に度々登場する部活ではあるけれど、また詭弁を弄されて……って。
想定し得る活動内容が、どう考えても地味すぎて、この名前だけでもクスッと来てしまうのが不思議だ。


と、ここまで書いてはみたけれど、最終的に全体通してどんな印象を受けたかと言えば……

「森見さん、楽しかったんだろうな」

である。
森見登美彦氏自身あとがきで語っていたけれど、作品のコンセプト自体がバッシングを受けても文句言えない類の作品なので、間違いなく賛否両論あるかと思われるけれど、それをこうして形にして、世に出した。ということは、もう、森見さん、楽しくて仕方なかったんだろうなと考察する他ない。
非難する側の人間にはわかりづらい話かもしれないが、こんなのはカバーソングみたいなものだろう。
色んな走れメロスがあっていい。このメロスも、実際に面白かった。それが楽しい世の中に、最近はなってきたと思うのだけれど……実際はどうなんだろうね。
私もね、Twitterで『吾輩は早漏である』とか書いてたくらいだし、そうすぐに目くじらを立てないで頂きたいと思うばかりだ。

いや、あれは酷かったけれど。

夢野久作『ドグラ・マグラ』を読んで。

『読むと頭がおかしくなる』のキャッチコピーで読書家、又は愛読家の方々に広く親しまれている(?)夢野久作渾身の一作にして、その不気味さや構成の難解さから日本三大奇書にも数えられている変てこな本『ドグラ・マグラ(上下巻)』を、やっとの思いで読破した。
先に断っておくと、そのキャッチコピーの通りに頭がどうかした──だとか、夢中遊行状態を引き起こした──だとか、そういったような事は決して起こっていないので、まあ、安心して欲しい。
至って健康、極めて普通である。
強いて変わった事があるとすれば、キッチンや風呂場に備え付けられた換気扇の「ゴオ────オオオ……オオオ────ンン……」という音が少しばかり、恐ろしく感じるようになったくらいのものだ。

さて、前述の通りやっとの思いで読破した『ドグラ・マグラ』だけれど、しかし読破したところで「よく分からない本だった」と言う他なかったというのが正直な感想だ。
と言うのも、別にこれは途中で二、三度ばかり心が折れてしまい読むのを辞めてしまった事で何分割にもされてしまった認識達が互いに反発を起こし理解を外へと追い出してしまった事が原因というわけでは、それはない。
たといその挫折を経験せず、一から十まで通して読んでいたとしても、此処に書き留める感想の言葉はただの一文字すら変化しないだろう。
原因は単純に、作品の構成、トリックが読者の混乱を誘うような作りになっているからだ……と思いたい。キットそうだ。決して頭が変になってしまったというわけでもない。ケッシテナイ。ケッシテ。

ちなみに、トリックと言うからにはそう、ドグラ・マグラは探偵小説に分類されるそうなのだが……どうも私としては探偵小説と呼んで良いものなのかどうか判断をしかねるタイプの小説だったと言わざるを得ない。
まあ出版社はともかく、夢野久作本人、又は若林博士(作中登場人物)が『作中内に登場するドグラ・マグラという本』に対し「これは探偵小説である」と、そう名言しているのだから、キットそうなのだろうけれど……個人的にはそもそも、小説というよりも“何か論文のようなもの”を読んでいるような感覚、気分だった。
実際、作内で博士達の論文がソックリそのまま記載されている描写もあったので、的を大きく外した表現では、これはないだろう。

何かの拍子でこれからドグラ・マグラを読もうとする人の目に触れるとネタバレになってしまうだろうから、具体的な内容に就いては伏せるけれど、このドグラ・マグラは所謂いまで言うところの『ループ系』なのだろうと、私は考える。脳髄は物を考える所に非ず……けれども、私は考える……いや、私の細胞は、私の過去が……そう考える……ウーン……脳髄という表現がどうも気持ち悪いなあ……。
主人公であるところの『私』が無限のループ地獄に陥る、あるいは既に陥っている永劫地獄。然し、現代のループ物のように何処か救いがあるわけでもなければ、何かを変えられるわけでもない。巡り巡らるキチガイ地獄ウ──ッ……というのが、この読後感の何とも言えないグッタリとした気持ちの主たる要因だろう。あの、凄惨を極めたループもの『ひぐらしのなく頃に』だって最後には救われ、報われたと言うのに……これが文学と萌えの違いか。

……ちなみに先程「よくわからない本だった」と言ったけれど、然しこれは、本当の意味で意味がわからなかったわけでは……いや……それも本音だが……それよりも何よりも、この言葉がこの本に対する最高の褒め言葉なのではないだろうかと考えているからである。
構想・執筆に十年もの歳月をかけ、執筆後「この小説を書くために生まれて来た」と言い残し、その翌年に逝去されたそうなのだが……そんな命を削り、血で書き上げたような小説をこんな若造に理解されてたまるかと言うような気迫が文章からヒシヒシと感じられた。故に……と言うと若干の烏滸がましさを孕んでしまいかねないけれど、故に、この小説を一言で表すのならば「もう一度二度読まなければ理解が難しいほどよくわからない本だった」という事になるというわけだ。

──長々と書きたい、語りたい気持ちは山々だが、それも野暮だろうと思われるので書評らしい書評(はしていないけれど)はここまでとして、少し愚痴を。

これもまたネタバレ回避のためにやむを得ず暈したニュアンスでしか語れないのだけれど、皆が一度は挫折すると言う『キチガイ地獄外道祭文』の辺り。「キチガイ地獄だスチャラカチャポコチャカポコ──」と小気味の良い正木博士の歌いの箇所では挫折することはなく不思議とスラスラ読めてしまったのだが、それよりも心理遺伝の発作を誘発させたる巻物の言い伝えの文書が、どうにも読みにくかったこと読みにくかったこと……飛ばしてしまおうかと考えたくらいだったが、物語の重要な鍵になりうる……と言うか、鍵ソノモノだったために読まざるを得なかったので何度も吐きそうになりながら読んだものだ。『ドグラ・マグラ』を読み終わるまでは他の本を読まないと決めていたのが良くなかった。どうも、体調が悪い日に読めるような本ではなかったようだ。
そして、この文章内でも真似をして使っている夢野久作特有のカタカナ遣いがなければ読めなかった本のようにも思う。
「お兄様、お兄様お兄様お兄様ア──ッ……声を……一言声を……聴かせてエ──エエ……エエ──ッ」という、従姉妹を語る隣人の発狂。あそこでグッと魂を引きずり込まれてしまった。頭の中で、その音がハッキリと鳴るのがおそろしくて、首をすぼめて文字にかじりついていた。私は可笑しくなったのかと、そんな錯覚すら覚えるほど、食い入るように文字を見ていた。いや、おかしくはなってないですよ。おかしくはなってないですよ。おかしくはなってないですよ。脳髄がおかしくはなってないですよ。脳髄が。脳髄が、脳髄がおかしくは、なってないですよ。おかしくはない。おかしくは。なってないです。おかしくはなってないおかしくなっておかしくおかしくなっておかしくなっておかしくないですよ。おかしく。




『胎児よ 胎児よ なぜ踊る 母親の心がわかって おそろしいのか』

こんな怖い冒頭歌があってたまるか。